岩国北部・錦おりなす清流の郷 やましろ商工会会員紹介

吉川林産興業(株)木谷事業所

経営山林は、山口県岩国市錦町広瀬木谷(通称木谷山林)2,090ha,
島根県鹿足郡吉賀町蓼野(通称王泊山林)261ha、東京都西多摩郡奥多摩町(通称奥多摩山林)56ha、計2,407haの面積を擁し、3都県に所在している。
木谷山林と王泊山林は地続きであり、その所有は木谷山林の沿革で示すように、吉川林産興業㈱2,129ha、吉川家222haとなっており、吉川林産興業㈱で一括管理している。両山林合せて2,351haの面積の内、約57%の1,340haが人口造林地である。人口造林地の85%はヒノキで、スギ14%、その他1%である。
現在収穫している材の大部分は構造材用の中小丸太(計画伐期は55年以上)であるが、一部ヒノキ造作材用のの大径木生産を考慮して、伐期を標準伐期の概ね2倍以上(70年以上)とした林分の造成を考え施業を行っている。
奥多摩山林は天然広葉樹林で林道等基盤整備の遅れもあり未開発のままの状態である。

●吉川家と林業

●吉川重吉卿と吉川林業 ~ 吉川林業の沿革 ~

 吉川家が基本財産として大面積の山林を購入し、林業経営に着手した由来は、分家の吉川重吉(ちょうきち)卿の献策によるものである。
重吉卿は、安政6年旧岩国藩主吉川経幹卿の第三子として生まれ、明治4年13歳の時に岩倉具視卿の欧米視察の一行に随ってアメリカに渡り、同16年25歳でハーバード大学を卒業するまで勉学を続け、卒業後ヨーロッパ諸国を歴遊して、帰国後は外務省に勤務、同20年にドイツのベルリン大使館に着任したがのち研学のため官を辞した。
同23年に帰国し、24年に分家を創立して、男爵を授けられ、貴族院議員として活躍し、大正4年57歳で没せられた。
長吉卿は、明治26年に家憲を作られているが、その中に林業家にとって貴重な教訓が含まれている。
英国では、旧領主や大地主はその土地に住んで住民の良き指導者、相談相手になるのが先祖や住民に対する責務であるとされており、永住できない事情が生じても、本邸は旧領土や所有地に置き、毎年何回か帰郷して土地や住民に親しむことが貴族(身分の高い家)に生まれた者の当然の義務であると、ヨーロッパ諸国では共通の考えであることに感銘した重吉卿はこれを吉川家家憲に入れ、自らも岩国に本邸を置いていた。
また、吉川家として永続的な繁栄を図るために資産を三種に分け

第一資本金=先祖より継承した資産は家に属するもので、繁栄永続を図るために家長の意志で分割又は自由に処理してはならない。(その運営方法やあげた利潤の使途についての規定もあるがそれは省略)

第二資本金=家の経常費、生活費、交際費、慈善事業等の寄附金、雑費等に充てるための資金でできるだけ利潤をあげる運営をすべきであるが、安全も考慮して投機に類するものは禁ずる。

予備基金=現金、又は換金しやすいものを若干準備する。

とし、重吉卿はヨーロッパ諸国の旧領主や貴族が安全確実な基本財産として、森林を世襲財産として保有している例が多いことを知って、吉川家に対して、第一資本金にあたるものとして森林が最適であると進言され、それが容れられ、明治36年隅家から木谷山林が購入され、吉川家の林業経営がはじまった。

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